目撃者:1860年3月24日(桜田門外の変)

私の母方の高祖父の一人に巳之吉(みのきち)という人がいて、ちょうど幕末の頃若者でした。この人の話したことを大伯父が書き留めています。

彼はとある事情で新潟から家出し、江戸へ働きに来ていました。以降、1860年3月24日(旧暦3月3日)の体験談です。

味噌配達員

 “養家を飛び出した巳之吉は江戸に出て、湯島の近くにあったという大きな味噌問屋に奉公した。大八車に味噌樽を積んで市中を配達するのが日課であったという。
 1960年旧暦3月3日。巳之吉はいつものように荷車に味噌樽を積んで配達に出た。その日は3月に入ったと云うのに江戸では珍しく雪が降っていた。雪国育ちの巳之吉は嬉しくなり、雪を草履で踏みしめながら桜田門の近くに来た。雛祭りなので江戸城に登城する大名の行列がたくさんあった。それを見物しようと多くの人々がいた。桜田門近くに来た時、前方から大老井伊掃部頭(いいかもんのかみ)の登城の行列が来るのに出遭った。巳之吉は荷車を道の端に寄せて雪の上に腰を落として行列の通過を待っていた。突然行列の前方に蓑笠を着けた百姓風の男が二、三人飛び出して、蓑の下から刀を抜いて黙って先頭の二、三人に斬りつけた。”

  “…「それ、狼藉者だ!」と言うので行列は騒然となり、大老警備の武士達が行列の前方に走って行った。その時、大老が駕籠の中から「何事じゃ?」と言って顔を出した。そのとたん、これも蓑笠を着けた百姓風の男が二、三人駆けよって、一人が大老の首を打ち落とし、首が駕籠から地面に落ちたのを見て、疾風のようにどこかに逃げ去った。それはあっという間の出来事で、 「大老が討たれた!」 と言って行列が右往左往する時には、もう浪士達は誰も現場には居なかったという。「御遺骸をどうする!曲者は何れに逃げた!」など言っている時には、もう武士達は誰も現場にはいなかった。”

錦絵と修正主義

  “(大伯父)が子供の頃もその後も「桜田門外の血煙」という芝居や活動写真がよく流行った。それらは、「桜田門外の変」とか「桜田門外の血煙り」とかの題名で、まるで赤穂浪士の討ち入りのように十八名の憂国の志士と大老警護の武士が華々しく切り結ぶ姿のものであった。「桜田門外の変」はこのように劇になったり、江戸では極彩色の絵双紙になって伝えられたが、本当はこの様な、あっという間のことであった。 ”

”この話が出る度に、祖父巳之吉は、「俺はその時それを見ていたのだ!」と言って私に聞かせてくれた。賑やかな江戸のことだからそのときそれを見ていたのは巳之吉だけではなかったと思われる。憂国の志士と大老警護の武士が華々しく切り結ぶ姿
(参考)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sakuradamon_incident_1860.jpg#
になって伝えられたのは、人々が、「名のある武将が、駕籠の中で刀も抜かずに首を落とされるのは、家門の恥ではないか。百姓に変装して名乗りも上げずに駕籠の中にいる者を、何も言わずに打ち落とすのは日本武士道に反する。卑怯者。」と思ったのではないかと思う。」”

 巳之吉爺の作業場には「武鑑(江戸時代の大名データが載っている一般向けガイドブック)」が置いてあったそうです。武家側に残っていない、他の市井の目撃者の情報もあるのでしょうね。